毒にも薬にもならずただじっとしている

読んだ後に何も残らない、を提供していきたい

今日も一日お疲れ様でした。

突然だけど、どこかに行きたい。でもどこに行ったらいいかわからない。そんな時、あるよね?

そんな時のライフハック!…なんてものはなくて、でも自分の機嫌は自分でとらなきゃ…。聞き分けよく、仕事でも文句もこぼさず淡々と業務をこなし、嫌な相手ともひたすら低姿勢で笑顔で接し、友人・家族にも愚痴をこぼさず、なんなら相手の愚痴を延々と聴き、飲食店で周りの席はラストオーダーを聞かれているのに自分の席だけラストオーダーを聞かれなくても、家に帰ってやっと1人くつろぎタイムだとお風呂に浸かった瞬間に裏手の家から3歳児くらいのギャン泣きがお風呂場を響き渡っても、ここ1ヶ月近くもはや食欲がわかず食べる量は減ってるはずなのに全く痩せる気配もなく、私の人生は一体なんなのかと怒りたくなるけど実際に怒る元気はなく、「頼むから、頼むからもうやめてくれ…」みたいな気持ちになるけど、かと言って何がしたいのか、どこに行きたいのか、もはや迷走から抜け出す術もみつからず、こんな虚無感を抱えながら、社会人ってやつはよ…生きてかなきゃならないんだもんな…。こんなん情緒不安定になるし、自律神経もイカれますわ。それでも誰のせいにもせず1人パフェ食って布団潜って涙流して静かに眠る私偉くない?(怒)(突然の情緒ぶっ壊れのためお赦しください)

きっと同じ思いを抱えている同志がいると思うけど、お互いよくがんばってるよな!えらいよな!私たち!(号泣)そんな同志たちに週末は気持ちが軽くなるような良いことが起こりますように…。

歌詞を考える

らふぃおらという歌がある。

悲しみに満ちる世界、

心まで消えそうな時、

優しい言葉よ、胸に届け、どうか笑って

 

こんな優しい歌詞があるだろうk、いやない。(食い気味)

誰にでも落ち込むことや失敗することがある。そんな時自分を責める言葉や攻撃的な意見に飲まれて余計に落ち込むことも往々にしてある。そんな時にはこの歌を聴いて、あたたかい言葉に救われる心がきっとあるよ。この歌を聴くとそう言われているような気がして何度も聞いてしまう。いい歌です。

ゴールデンボンバー『ラフィオラ(Life is alright)』)

 

歌詞繋がりで、翳りゆく部屋という歌がある。

ランプを灯せば街は沈み、

窓には部屋が映る。

冷たい壁に耳をあてて

靴音を追いかけた。

 

こんな文学的な歌詞があるd…いやない。(食ってる)

夕暮れ時に、電気もまだついてない部屋にいたんですね。少し気まずい雰囲気の恋人といて、沈黙が怖くて、でも言葉にしたらこの関係は終わってしまうだろうとお互いにわかってる状況で、日は沈んでいく。そうすると窓のそとの家々には灯りが灯ってどんどん空は暗くなっていく、反対側に部屋の中では、相手の表情のない顔が窓に反射してくっきりしてくる。程なくして相手は部屋を出たんでしょうね。部屋の外、きっと集合住宅なんでしょう、冷たい鉄筋コンクリートのマンションの廊下をコツコツと去っていく相手の靴音が響いていくのを、部屋の中から壁伝いに音を聞いている。いや追いかけたいんだよ?本当は。けど簡単に部屋を出て引き止めて止められるような別れじゃないんでしょうね、引き止めても無駄なのかもしれない、最初から間違いだったのかもしれない、それは2人にしかわからない関係だったんでしょう。だから名残惜しくて、あなたの最後の靴音だけでも聞かずにはいられない、追わずにはいられないんだよ。

これを2行で表現してるんだもの、こんなの天才の歌詞ですよね。

松任谷由美『翳りゆく部屋』)

 

さらに歌詞繋がりで思い出したんですけどね、小名浜という歌(ラップ)があるんですね。

中学卒業も更正院
数年後には準構成員
旅立ちまるで小名浜のカモメ
行ったり来たりが歩幅なのかもね

くじけた背中を洗うソープ嬢
泡と流す殺気立つ毒を

 

私はほとんどラップの曲を聞いたことがないのだけど、この小名浜だけはずっと記憶に残ってて、例えるとショートムービーを見ているような歌なのです。だいぶ荒んだ家庭に育ち、不良から暴力団関係の道に進み、そんな環境を抜け出そうとするんだけど、この曲全体をどんよりした曇り空が覆っているような感覚。韻を踏んでるとかそういう技巧的なものの凄さというより、狭い閉ざされた世界で、必死にその時自分が選べる最善の選択肢を選んで前に進もうとしてきたけど、何年経っても堂々巡り。3歩進んで2歩下がるならまだしも、同じ場所を行ったり来たり、人を信じてまた裏切られ、諦めてるのに希望が捨てきれない、何度もあがいてやり直そうとしてはまた道を逸れ、順風満帆な人の歩幅と比べると、理解はされないかもしれない。そんな自分の人生の歩幅をようやく自分で受け入れそうだ。その様子が故郷小名浜のいつもの空を揺れるように飛ぶカモメとリンクする。しかもこのカモメのシーン、準構成員として逮捕されて刑務所から帰ってきて再出発だって門出なのに、すぐにソープ嬢との場面に切り替わる。リアルだ。作り物のドラマとは訳が違う。ソープ嬢がくじけた身体と一緒に今までの毒を洗い流してくれる。旅立ちを美化しすぎず、人間っぽさをそのまま歌にしたところがこの歌の良いところだと感じる。

(鬼『小名浜』)

 

どの歌もいい。三者三様人間らしくて好きだ。

 

パンケーキって食べる前が一番美味しいよね。

自分の知っている場所が一つ、また一つとなくなっていく。

自分の知っている風景が一つ、また一つ変わっていく。

それは自分の居場所がこの世の中から失われていくような感覚を覚えることだ。

自分がそこにいた思い出が地上から消えてしまうような心細さと、自分の思い出が完全に周囲から忘れ去られていく悲しさが、まるで生きながら「死」を経験しているかのような錯覚を生む。

だから、人は出来る限り自分の知ってる場所に長く残り続けてほしいと思うんだろうね。

きっとこの心細さと寂しさに対抗するには、変わった先の未来の場所にも自分の思い出を作る他ない。その思い出がさらに未来の居場所になるだろうからね。

なんと寂しい生き物だろうね。

三日坊主の壁

何かに手をつけた時、長続きしなかったことを三日坊主で終わったと、人は考える。逆に考えるんだ、三日で終わっていい、三日続いたなら御の字である、と。

 

私はとにかく三日坊主が多い。このブログも然り。「料理ちょっとがんばろうかな」とか考えて買ったレシピブックは本当に3品くらいしか作ってない。「今日からスキンケアがんばろう」と思って半身浴を始めて次の日には「時代はSDGs、毎日お湯を溜めるのはECOじゃない」とか言い出してシャワーを浴びた。(三日坊主ですらなかった)

しかし三日坊主のことを悪く言うのはやめていただきたい。皆多かれ少なかれ、三日坊主で終わってしまうことなんて良くあることだろう。その度に「あーまた三日坊主になっちゃったな」とネガティブに考えていては1年の半分くらいはネガティブになってしまう。そこで、三日坊主さんのことは逆にポジティブに捉えようと思う。そうすれば1年の内32ヶ月くらいはポジティブ時間を過ごせると言うものだ。

良く言えば、フットワーク軽くほいほいと物事を始め、損切りの判断も早いということだ。フットワークが軽いというのは人生にとってかなり大事な点だ。英語のことわざにも「ローリングストーンに苔は生えない」とある。イギリスではネガティブな意味で使われるこのことわざもアメリカ圏内では良い意味で使われたりもするので、まさに三日坊主という言葉も逆にフッ軽の意味が定着する日が来るかもしれない。

ということでブログ内容もこれくらいコンパクトで締めて次のことをしよう。決して「書いてみたけど、やっぱりそこまで書くことなかったな」と言うわけではない。

今年の目標達成

これは私のくだらない目標なのだけれど、毎年最低1つは新しいことをするようにしている。

その新しいことは何でもよくて、大体今までは資格を取るとか行ったことのない場所に行くとかが多い。そのため、最低1つとは言いつつも、調子の良い時は毎月新しいことをしていることもある。

しかし今年はいつにも増して些細な新しいこと稼ぎをしている。そんな中でも今年一のささやか新しいことと言えば、カラコンを付ける、だ。さすがにささやかすぎだろう。

ちょっと反省の意も込めて、先日、翻訳家の柴田元幸先生のオンライン朗読会なるものに初めて参加した。(これならささやかすぎることはないだろうと胸を撫で下ろす。)

ちなみにこれだ↓(なんと毎月開催しているようだ!)

https://tegamisha.com/news/news-1530/

柴田元幸さんと言えば、アメリカ文学の専門家で、私も大学生時代に読んだアメリカ文学作品の記憶に残っているほとんどが柴田先生の翻訳だった。

中でもポール・オースターの『幽霊たち』を読んだ当時、柴田先生はまだ東大准教授という肩書きだった。(よくよく考えると、その時持ってた本も初版の頃は准教授だったのだろうけど、私がそれを手にした時にはもうとっくに教授になってたんだろうな)それが今はどうだろう。朗読会のことを聞き知って少しネットで調べてみたら、今や東大名誉教授なのね…。名誉教授がまだ日本に入ってきてない出来立てほやほやの最新アメリカ文学作品を、朗読会で読んでくれるという、なんと贅沢な時間なのか。そう思って告知の開催日はいつかな?と目を滑らせると、なんと2日後だった。これは参加しなさいという啓示に他ならぬ。私は嬉々として参加の申し込みをした。

会は1時間の予定だったから、どんな作品を読むのか?作品全部じゃなくて一部抜粋とかなのかな?とか、質問コーナーもあるけど、住む世界が違いすぎて何を聞いたらいいんだ…好きな食べ物とか?とか、色々考えて考えてしてたが、始まってしまうとそんな心配は全く必要なかった。

参加者は私を含めて40人程で、zoom慣れしてるのか、殆どの方が画面オフで柴田先生を進行を聞き静かに参加していた。時たま柴田先生からの問いかけにチャットで色々答える場面もあったが、終始柴田先生と出版社担当の方のペースが心地よく、1時間はあっという間に過ぎていった。

朗読は短編を2作品と、今まさに翻訳作業中の絵本の1冊概要紹介をしてくれた。参加者からも朗読した作品に関する質問がちらほらとチャットで上がったが、それにもさらさらと回答してくれた。なんだか、大学の講義を思い出す時間だった。

初の参加だったこともあり、意気込んでカラコンを付けて臨んだのに、ひよって顔出しもせず質問もできず、なんなら紹介してくれた絵本がすごく自分好みで発売されたら購入しようと思ったのにタイトルと作者名を覚え損ねるという失態をかました私だが、来月も懲りずに参加しようと思った。また、懐かしくなって、図書館で柴田先生訳のポール・オースターの『ムーン・パレス』を借りてきた。気分は夏休み(普通に仕事だが)なので、読んで読書感想文でも書こうかな。

 

今日のはつまらない駄文

私たちには未知の力がある。

人によってその力は違うけれど、確かに何かある。卑下することはない。悩むこともない。ただ受け入れるだけでいい。それが一番難しいことなのだけれど。

誰にでも経験があるはず。『きっと大丈夫、うまくいく』と何の根拠もないのにそう思って臨むと本当にその通り進んだり、その逆もまたある。

他者を勇気づける力を持つ人もいる。何故だかわからないけれど周りの人へ影響を与えやすかったり、うまく説明はできないのに危ないものを察知して回避したりすることも、ままある。

どれもこれも、現代の人間社会では未知の力と分類される、こうした力は、本来の生物として当たり前に備わっている能力でもあるのだろう。そう考えると人間とはかくも弱く儚い生き物だ。パスカルも言っていた。『人間は考える葦である』と。何もできず自然に翻弄されて、ただただ考えることしかできない生物。

たとえ科学技術が進歩して、裕福で食べることに困らなくなった今であってもそれは同じことだ。行き当たりばったりで、将来に希望が持てない今の時代、先行きの不安に取り乱し、本来の人間の弱さを忘れてしまい、自分という存在に対し冷静な判断力をなくし絶望してしまっている。

それも含めて人間は儚い存在なのだ。ただ、考えることだけは失っていない。

考えて、考えて、考え続ける。それが人間の未知の力の根底にある。それを受け入れるために、絶えず考えていくのだ。

 

戦っていかなきゃいけないのよ、イデアと。

写真は「この美しい“今”を記録したい」という思いから撮影されてきたんだと思う。これを残したい、伝えたいという思いは他者が存在する行為の前提だ。誰かに知らせたいから撮る、後世に伝えたいから写る、そんな思いが形になって100年以上が経った。

けれど現代になりスマホが普及してから、写真の意味は少し違った変化も生んだ。誰かに伝えたい、という思いは確かにあるが、それとは別に「自分の考える“美しさ”を記録したい」という思いが強くなった。そう、写真の加工だ。

そこに存在するありのままの状態ではなく、自分が考える「本来ならこうあるはず、こうあってほしい状態」を写真に加工を施し記録するのだ。その対象は、時には風景写真だったり自撮りした己の顔面だったり、様々だろう。1度も写真を加工したことがない人はよもやいるまい。

特に女性は1度や2度では済まないだろう。時に女子会と称した友人、職場の女性陣たちと食事した際に「記念に写真撮ろ〜♡」と率先して自身のスマホを使って写真を撮ってくれた人に限って、己の顔面だけ美肌で顔の輪郭までも整形級に修正して、「みんなにはSNSのタイムラインで共有するね〜♡」とか鬼の所業をかます輩が群雄割拠しているわけだが、それら魑魅魍魎と戦っていくには自ずと自分も多少の加工をしながら渡り合う必要があるのだ。(あくまで個人の感想です。)ここで指を咥えて、良い諾々と従っていてはいられないというのが人のサガである。かく言う私は、「ここまでやったら、『あ、あいつ人にはそう見られたいんだ〜。うける〜、自意識過剰じゃない?』などと言われるのでは…?けど流石に無加工に耐えられる顔面じゃないし、周りが眩しすぎてこの写真を思い出の中から抹消してしまいたくなるし…」などと、どうしても修正を行う指に歯止めがかかってしまうが、しこたま悩んだ挙句にほんのり美肌に修正して良しとするチキン野郎だ。

しかし、この行為、本来の「残したい、伝えたいという思いを前提とする他者が存在する行為」だと言えるだろうか?もちろん、他者の存在は必要は必要だろうけれど、比重はそこではない。「自分の考える“美しさ”を残したい」が本丸になっている。これはよく考えると、プラトンイデア論に近いのではないか。

プラトンは世の中のものにはその理想形であるイデアが存在すると考えた。例えば私たちは杉の木や檜の木、白樺の木なんかを見て(字を見るだけで鼻がムズムズするね)、「これは木である」と認識できる。その木の色・形・大きさなどなど一つとして同じものはないのに、全て「これは木である」と認識できるのだ。これは「木のイデア」というものがそもそもあって、私たちは生まれてくる前にイデア界(イデアだけで構成された世界)を通じてそのイデアを知っているのだ。生まれてくる頃にはその存在をすっかり忘れてしまうけれど、かすかに残った記憶から、木を見た時に忘れていた「木のイデア」を思い出し、「これは木である」と認識するというものだ。

長たらしく書いたけど、要は完璧な存在が頭の中にあるから、現実のちょっといびつなものもその仲間だと認識できる、ということだ。これは撮影した写真の中の自分の顔が、「私のイデア」とかけ離れてる場合(太ったり、日焼けしたり、髪の毛が上手くまとまらなかったり。そう、いつもの自分だ)、自分のイデアとのギャップに苦しみ、その差を埋めようとする行為に近いのではないだろうか。それならイデアによる作用なのだから仕方ない、と思えなくもない。(マジレスの恐怖から言及しておくと、この時代の哲学では、哲学の対象は世界・事象(客体)だったので、自分(主体)のイデアは考えられてなかった…はず)

プラトンの哲学では世界を説明しきれず矛盾を孕み、次の世代の哲学興隆へとつながったように、私たちの自撮り加工の沼も現実と理想の矛盾を孕み、次の最新整形技術やメイク技術の興隆へとつながっているのかもしれない。2400年前から人間っていうのは大して変わってないのかもしれない。