毒にも薬にもならずただじっとしている

読んだ後に何も残らない、を提供していきたい

すやすやの原石

ほかほか夕ごはんをゆっくり食べ、時間を気にせずポカポカお風呂に入り、快適なお部屋で大好きな布団にくるまり、気持ちよくウトウトして眠りにつきたい。

これ以上幸せなことがあるだろうか、いやない。(食い気味に)

この価値観は時代を遡っても、きっと多くの人が激しく頷きながら共感してくれるだろう。その証拠に、およそ30年ほど前に放映されていたテレビアニメ「日本昔ばなし」のエンディングテーマで、ほぼほぼ同じ内容の歌詞がある。大作『にんげんっていいな』だ。こう書いて、日本昔ばなしがもう30年前という事実にオロオロと狼狽えつつ、(放映開始に至っては約50年前らしい。半世紀もこうして受け入れられているのならば、映像の世紀くらいのドキュメンタリーが作られてもおかしくないのでは!?)歌詞を頭の中で反芻してみると、実に平和的で温かい歌だと、世間に揉まれすぎた小汚い庶民の私は血の涙を流して気が狂いそうになった。

知らない方のためにまずこの歌の概要を記載すると、この歌はくま・狐・うさぎ・もぐら・人間の子どもたちがかくれんぼしながら遊んでいるところから始まる。もうこの時点で尊い。(種族を超えて遊ぶ子どもの純粋さよ。)そして夕方になり、みんな帰る時間になると、人間の家からはふわふわと美味しそうなご飯の香りがしてくる。これを見て動物の子どもたちは「いいないいな、人間っていいな♪」と無邪気に歌ってそれぞれのお家に帰っていくのがこの歌だ。ここで謎の涙腺崩壊。(情緒が乱れた大人には、こういうのが一番効くのよ。)みんな幸せになるんだよ…!(特にくまにも狐にも食べられそうなうさぎ!生きて!)

ところで、オノマトペとは偉大だ。なんだかすごく心に刺さる。(語彙力の喪失)たとえ言葉を多く知らない子どもであっても、その表す内容をイメージとして受け取ることができ、経験豊富な大人にであれば、さらに情景を想像できるような効果を生む。

であるならば、と考えて、今日のブログ冒頭はオノマトペをふんだんに使って眠りの幸せを表現してみた。(少しは睡眠はいいものだと伝わっただろうか?)はい、嘘です。そんなこと考えてないです。ただ、心からすやすや眠りたかっただけなのです。最近なぜか寝付きが悪くてね…。眠れないともう「すやすや」って書いてあるだけでなんか幸せ感じちゃうもの。

なんかの本で読んだけど、原始時代の人間は夜火の番をする係がいて、その役割の名残として夜型の人間がずっといる、的なことが書いてあった。だから、今この瞬間にも眠れない人が自分の他に何人もいると思うけど、今日は夜当番の日だと思えば少しは割り切れたり…しないだろうか。明日はすやすや眠れるよ。ちょっといいごはんも食べよう。ポカポカお風呂にも浸かろう。お布団に入って、また眠れないようだったら、「にんげんっていいな」でも聴いて目を閉じよう。

でんでん♪でんぐりかえって♪バイバイバイ♪

甘いピザは許されるが甘いパスタは許されない

皆さま、甘いパスタを食べたことがあるだろうか?

甘いピザなら食べたことあるんじゃないかな。ホットチョコピザとかハニーチーズピザとか。あれは良いものだ。おいしい。しかし、甘いパスタはどうか。残念ながら私は修行が足りず、一口食べて、その味わいに絶望してしまった。(ただ、その後意地で完食した)

同じ小麦粉なのに…。製造方法が違うというだけで、許されるものと許されざるものとへの分断が起こっている。その差はごくわずかのはずなのに、なぜこうも違うのか、そう思ってしまった。私はこのパスタと分かり合えないのだろうか、と。

皆さんご存知の通り、名古屋にはマウンテンというお店がある。↓(喫茶 マウンテン https://g.co/kgs/EaxUoy

かく言う私も甘いパスタをここで食べた。東海圏ではかなりの有名店で、この唯一無二の味わいを求めて全国各地から甘いパスタを食べに来るようだ。しかも種類豊富で私が食べた甘いパスタは生クリームとチェリーの乗ったオーソドックスなものだったが、他にもあるようだった。初めは怖いもの見たさに近い感覚だった。ただ2口目以降は「ダメだこいつ、なんとかしないと!」とゾンビウィルスに感染してしまった友人をどうにかしようとワクチンを探して戻ってきたら、既にゾンビ化が進行しすぎてて泣く泣く銃で撃つことを決意する、みたいな心境に近かった。

脳内で「え〜!おいしいのに〜!」と誰かの幻聴が聞こえる。出来ることなら私だって美味しくいただきたかったさ…。けどね、難しかったよ…!難解な味だったんだもの…!鬼束さんだって歌っていたじゃないか、『分かり合えてるかどうかの答えは、たぶんどこにもない』と。ごめん、ちょっとなに言ってるかわからないね。(錯乱)

そうだ、あのパスタを食べた時の感覚は、『錯乱状態』に1番近かった気がする。自分の想像外の味だったからか、はたまたいつも自分が食べ慣れている味とかけ離れていたからかは定かではないが、頭と気持ちと五感と身体がそれぞれ噛み合っていなかった。

しかし、人間誰しも新しいものに順応するには時間がかかるもの。何度かリピートすることで慣れて平気に、果ては好物になったりするもの。もう一度食べたら前よりは分かり合えるだろうか。食べ物とさえ分かり合えないのなら、人間同士分かり合うなんて不可能だ。

時に、ヘーゲルの言葉を思い出すと、他者を否定する者と否定された者、それぞれが今度は自分を顧みて「あぁ、私のここが良くなかったな。確かにあなたの言う通りですね」「いやいや、私の方こそ悪かったですよ」「いえいえ、そんなそんな…」「どうぞどうぞ…」みたいなやりとりを絶えずしていくことが、人間には必要だと言っていた。(気がする。世に言う「絶対知」というやつ)↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB

これはまさに甘いパスタを巡る私の姿勢なのではないだろうか!?と思ったけど、あれ以来、マウンテンに足を運ぶこと自体に躊躇いが入って、3年経った今も行けてないので、違うかもしれない。誰か代わりに行ってきて…。パスタと和解してきて…。

みんな何食べてるー?

1日のうち食べられるものには限界がある。この飽食の時代、好きなものだけ食べて生きていくこともできるかもしれないが、それはたぶん良くない、健康とか考えるとね。

それと同時に、自分一人で自分の身の回りの面倒を全てをこなして長いと、セルフ雑扱いが加速してしまうもので、今日は夜ごはんポテトチップでいいや、から始まり、朝ごはん食べなくていいや、とか、しまいには毎日食べなきゃいけないの面倒だな、みたいなことに繋がっていくようになる。

 

これはたぶん、家族と暮らしてる人でも起こる現象だと思うけど、自分以外の人がいるとその人のことを考えてちゃんとご飯を用意して、自分のご飯は適当でもいいやとなることがあると思う。人のものは大切に扱うけど、自分のものはちょっとおざなりになるという心理のそれだ。

 

さて、それとこれとは全く関係ないけど、ラットのユニバース実験ってものがありますね。実験用マウスたちに餌を潤沢に与えて外敵もいない環境を整えてあげて経過を観察するって言うもの。要するに今の人間の環境をマウスに当てはめて、どのような未来が訪れるのかを観測しようとした実験だ。(興味のある人は調べてみてね↓)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BBB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%B3

この実験は過去何回も行われたらしいけど、結果は全て同じで、最終的には異常行動が多くなりすぎて繁殖しなくなる、という。

 

同じくラットの実験で、ねずみの楽園実験っていうものもありますね。(詳細はこちら↓)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF

こちらはラットにとっての楽園と植民地環境を作って、そこに依存性のある薬物を投与するとどうなるか、を観察した実験。結果は、楽園に住むラットは他のマウスと遊ぶ方が優先されてあんまり薬物依存にならないのに対して、植民地に住むラットの方は薬物依存になりやすいらしい。しかもこの実験、これで終わりではない。薬物依存した植民地ラットを今度は楽園に移してやると、他のラットと遊ぶ方に興味がシフトして、依存度が軽減されたようなのだ。

これは人間の依存症についても同じような働きがあると思われるけど、それだけじゃなく、セルフネグレクトにも影響があるように感じる。

人間も人間である前に動物だから、こういった環境によるストレスで依存したり、逆にどうでも良くなったり、果ては種という大きな括りで繁殖しようとしなくなるなんてことが起こりうるってことだね。

 

根本的な解決策は「閉じた世界に居続けずに、外に出よう、いろんな人とコミュニケーションをとろう」になると思うけど、まずはごはんはポテトチップですまさずにしっかり食べよう。それだけ今日から始めよう。

とか考えて夜ごはんちゃんと食べるようにしたら速攻で太った。体は正直ね。

目指さなくていいのに目指しちゃうんだな〜これが

自分で自分の首を絞めるって、あるよね。

 

やることいっぱいあるのに、「これもお願い」とか言われると、周りを見渡して(他にできる人いないもんな)とか(私が今ここで断っても、なんやかんや面倒くさいことが起こって結局尻拭いさせられそうだな)とか色々考えてしまって、「あ、はい」とだけ返事して受け取ってしまったり。

これくらい出来ていれば及第点だとわかっているのに、完璧主義が顔を覗かせてしまって100点目指してがんばるんだけど、そのせいで心も体も余裕がなくなって訳もなくイライラして、及第点ギリギリでいいやと割り切っている同僚や友達を横目に、なぜか自分だけ損してる…とか思ってしまったり。

それなりに仕事はこなしてはいるけど、得意なこともなく、何者にもなれず、自分はこれでいいのかとdodaのCMが流れるたびに情緒不安定になり、今の仕事に大きな不満はないのに転職活動しなきゃと焦って転職サイトに登録してしたはいいものの、そのサイトの仲介担当から鬼のような電話がかかってきてさらに焦ってしまったり。

 

要は、なりたがってしまうのよね、何者かに。

思い返せば、学生の頃はわかりやすい目標があった気がする。

あの高校に入るために勉強しよう、あの大学に入るために勉強しよう、国語が得意だから文学部に入ろう、医者になりたいから医学部に入ろう。

けど、社会に出た途端、その目標が急にわかりづらくなる。

この道でずっとやっていけるのか、やっていっていいのか、不安にもなるし、そもそも選んだ道が自分に向いてないんじゃないだろうか、とか思い始める。

途中まで進んだところで、環境が変わっていく周りの人たちを見て、今度は自分のライフステージこれでいいのか、とか思い始める。

THE 迷走のはじまりである。

 

正解なんてないんだから、どんな自分でもすんなり肯定できたらいいんだけどねぇ…。

なんでこんなに生き迷うのか、きっと色んな生き方が目に入ってしまうからだろうねぇ…。

他の人たちが輝いて見えちゃうのよ〜。

それと比べて自分は…あぁ〜ってなるのよ〜。

 

そんな時は、ディズニー映画でも観て「ンナァー‼︎」って爆発させるといい。

できればライオンキング。

歌とか一緒に歌ってサバンナの一員になるのだ。

別にシンバに共感できなくてもいい。

最近はヴィラン側のキャラクターにも光が当たってることだしね?ハイエナたちにシンパシー感じたっていい。

とか言ってるけど、ディズニー映画に詳しいわけじゃない。

なんだっていいの。少しでも声を出すだけで、胸の内に溜まったガスみたいな陰気くささが発散される気がするから。

 

するってえと何かい?カラオケとかで歌うだけでもいいってことかい?(急な江戸っ子)

それもいいかもね。

けど、私のおすすめはやっぱりライオンキング。

なんか、動物観て癒されるとこもあるから。

あ、動物を観て癒されるって、「かわいー♡」とか言う感じではないよ。「…なんか、何考えてんのか、よくわからんな、あいつ」って感じで、自分の悩みも「…なんか、どうでもいいよな」と感じるのだ。

そうすると、じゃあ動物園に行くとかでもいいかもしれない。

公園のスズメ見てるだけでもいいかもしれない。

近所の野良猫でもいいかもしれない。

けど、アルパカ、お前だけはダメだ。

よく『アルパカは臆病な動物だから、何か怖いと感じると、ツバを吐くことがあるよ』みたいな注意書きがされていたりする。

しかし、ヤツらのツバは力強い霧吹き並みなので、そんな可愛いものではない。

こちらが優しく撫でていても、何か気に入らない(距離感近かったのかな?触る場所が気に入らなかったのかな?触り方が雑だったのかな?)と感じるとすぐツバを吐く。

(性格が悪すぎやしないかい?そう思うのは私だけかい?)

 

とにかく、アルパカには気をつけた方がいい。

今日の結論はこれだな。

 

現代人は文字に飢えている

と、勝手に思っている。

私がそうだからだ。

 

現代人は、と括ってしまうのは、主語が大きくなりすぎだとも思うけど、

だいたいざっくりの括りだということをご容赦いただきたい。

 

本題に入ると、最近はスマホの普及率が極端に高い今、みんなが手軽にSNSを利用できるようになった。

TwitterInstagramか、はたまたfacebookmastodonか、その差はあるだろうけど、だいたいが自身の好きなことを好きなように投稿して、それを誰かが見る。

その逆もしかりで、自分は気に入った人をフォローしてその人の投稿をわざわざ見に行く。

SNS自体はコミュニケーションツールかもしれないが、

好き好んで、どこぞの誰かの投稿を読んで、コメントやいいねを残し、一喜一憂して帰っていく。

そして、自分の投稿に寄せられたどこぞの誰かのコメントやいいねを見て、これまた謎だが一喜一憂はては怒りや情緒掻き乱されを経験して、また次の日にはそれを忘れて繰り返す。

 

地獄の完成である。

 

そう、みんなわかっている。

SNSは疲れると。

見ても承認欲求の塊お化けがわんさかいて、かつ自分の承認欲求は地味に満たされない。

そこにこだわって残っていても何も得るものはないと。

けど、次の日になると、やっぱり今日はいいことあるかも、満たされるかも、となんらかの期待をしてSNSを覗かずにはいられない。

この心理はギャンブル依存に似ているかもしれない。

明日は勝てる、勝てなくても負けた分は取り返せる、どちらかと言えばマイナスだけどいつもより惜しかったし必勝法が思いついたから良しとしよう、etc。

 

ここまでわかっててなんでやめられないのか。

ギャンブル依存症については、あくまで似ている例として挙げただけなので、ここで何か持論を述べたかったわけでも、したり顔で通説を語りたかったわけでもない。

(その点だけご留意いただけると助かります。

依存傾向にある方は素人判断は厳禁の専門の機関による診療と、知識とその他継続したケアの必要な症例であるので、適切な機関に相談してくださいね。)

(と、誰にも怒られないようにと思考が先回りしてしまって、謎の配慮文を食い込ませてしまうあたり、私も随分とSNS炎上に毒されてしまっている)

 

先の問いに戻ると、なんで見えている地獄に片足突っ込ませてしまうのか、単純に文字を読みたいと欲しているからなのではないだろうか?

と考えたわけである。

 

みんな経験していることを思い出してほしいのだが、

仕事やら何やらで資料をたくさん読んだり会議した日や、友達・家族とたくさん会話したりLINEした日は、疲れてSNSを開く時間が少なくならないだろうか?

 

「え?そんなことない?」→そうか…。

「ちょっと当てはまるかも?けど、それって単に物理的に疲れただけであって、文字のやり取りが多かったことに満足したわけではないよね?」→そうかもしれない…。

「そういうのをこじつけって言うんだよね」→すみませんでした…。

 

見える…。

いろんな角度から指摘されるのが見えるぞ。

何を書いても配慮が足りないと言われそうで怖い。

最近、冗談でもなんでもなく、本当に「言いたいことが言えないこんな世の中」になってしまった感がある。

(※個人の感想です。)

 

ただ、個人的に自分がSNSを覗くときの状況を観察した結果、なんらかの意味があるが、書いてある内容はそれほど難しくなくて、一眼通せば理解できるくらいの短文をぱらぱら読む、という行為が非常に心地良いと感じる気がする。

そしてそれは、外部とのコミュニケーションが不足している時に最もしたくなる行為であるように感じた。

 

人と話したい、誰かと分かち合いたい、それは根源的な欲求かもしれない。

そして直接のコミュニケーションができずとも間接的コミュニケーション、つまり文字を通したコミュニケーション方法を確立した現代人は、その根源的欲求が満たされない時に代替欲求として文字を欲するようにしたんじゃないだろうか。

 

だって好きな人と一対一でおいしいごはん食べて、「幸せだね♡」ってやってる時は、SNSなんか開く必要はないもの。

と、そこまで思って、ハッとした。

その瞬間(綺麗な夜景が見える席で、シャンパングラス2つと上品なフレンチが乗ったお皿が2セット見切れていて、かつテーブルの上には彼氏からもらったであろう指輪がさりげなく置かれている)を写真で切り取り、

あえて「ここのディナー、変わらない味でお気に入り。毎回ゆったりと過ごさせていただいてます。 #何気ない日常に感謝」などと説明文を書き、彼氏から指環をもらった私幸せアピールを暗にする人たちがSNSには何万人もいるのだった。

 

そうね、私の考察はただの私の場合の話でしたね。

やっぱりSNSは難しい。

明日からはSNSを開きたくなったら、お菓子とかなんらかの商品パッケージ裏の原材料名とか書いてある部分を30回くらい繰り返し読んで、この文字の飢えに対応しようかな。

「その時間を使って資格試験の勉強して資格取得するといいですよ!」とか「本を読んで教養を増やすと考え方変わりますよ!」とか、

いろんな声が聞こえてくる(被害妄想)けど、わかっちゃいるけどそれがすんなりできたら苦労しないのよね…。