毒にも薬にもならずただじっとしている

読んだ後に何も残らない、を提供していきたい

戦っていかなきゃいけないのよ、イデアと。

写真は「この美しい“今”を記録したい」という思いから撮影されてきたんだと思う。これを残したい、伝えたいという思いは他者が存在する行為の前提だ。誰かに知らせたいから撮る、後世に伝えたいから写る、そんな思いが形になって100年以上が経った。

けれど現代になりスマホが普及してから、写真の意味は少し違った変化も生んだ。誰かに伝えたい、という思いは確かにあるが、それとは別に「自分の考える“美しさ”を記録したい」という思いが強くなった。そう、写真の加工だ。

そこに存在するありのままの状態ではなく、自分が考える「本来ならこうあるはず、こうあってほしい状態」を写真に加工を施し記録するのだ。その対象は、時には風景写真だったり自撮りした己の顔面だったり、様々だろう。1度も写真を加工したことがない人はよもやいるまい。

特に女性は1度や2度では済まないだろう。時に女子会と称した友人、職場の女性陣たちと食事した際に「記念に写真撮ろ〜♡」と率先して自身のスマホを使って写真を撮ってくれた人に限って、己の顔面だけ美肌で顔の輪郭までも整形級に修正して、「みんなにはSNSのタイムラインで共有するね〜♡」とか鬼の所業をかます輩が群雄割拠しているわけだが、それら魑魅魍魎と戦っていくには自ずと自分も多少の加工をしながら渡り合う必要があるのだ。(あくまで個人の感想です。)ここで指を咥えて、良い諾々と従っていてはいられないというのが人のサガである。かく言う私は、「ここまでやったら、『あ、あいつ人にはそう見られたいんだ〜。うける〜、自意識過剰じゃない?』などと言われるのでは…?けど流石に無加工に耐えられる顔面じゃないし、周りが眩しすぎてこの写真を思い出の中から抹消してしまいたくなるし…」などと、どうしても修正を行う指に歯止めがかかってしまうが、しこたま悩んだ挙句にほんのり美肌に修正して良しとするチキン野郎だ。

しかし、この行為、本来の「残したい、伝えたいという思いを前提とする他者が存在する行為」だと言えるだろうか?もちろん、他者の存在は必要は必要だろうけれど、比重はそこではない。「自分の考える“美しさ”を残したい」が本丸になっている。これはよく考えると、プラトンイデア論に近いのではないか。

プラトンは世の中のものにはその理想形であるイデアが存在すると考えた。例えば私たちは杉の木や檜の木、白樺の木なんかを見て(字を見るだけで鼻がムズムズするね)、「これは木である」と認識できる。その木の色・形・大きさなどなど一つとして同じものはないのに、全て「これは木である」と認識できるのだ。これは「木のイデア」というものがそもそもあって、私たちは生まれてくる前にイデア界(イデアだけで構成された世界)を通じてそのイデアを知っているのだ。生まれてくる頃にはその存在をすっかり忘れてしまうけれど、かすかに残った記憶から、木を見た時に忘れていた「木のイデア」を思い出し、「これは木である」と認識するというものだ。

長たらしく書いたけど、要は完璧な存在が頭の中にあるから、現実のちょっといびつなものもその仲間だと認識できる、ということだ。これは撮影した写真の中の自分の顔が、「私のイデア」とかけ離れてる場合(太ったり、日焼けしたり、髪の毛が上手くまとまらなかったり。そう、いつもの自分だ)、自分のイデアとのギャップに苦しみ、その差を埋めようとする行為に近いのではないだろうか。それならイデアによる作用なのだから仕方ない、と思えなくもない。(マジレスの恐怖から言及しておくと、この時代の哲学では、哲学の対象は世界・事象(客体)だったので、自分(主体)のイデアは考えられてなかった…はず)

プラトンの哲学では世界を説明しきれず矛盾を孕み、次の世代の哲学興隆へとつながったように、私たちの自撮り加工の沼も現実と理想の矛盾を孕み、次の最新整形技術やメイク技術の興隆へとつながっているのかもしれない。2400年前から人間っていうのは大して変わってないのかもしれない。